第五準備書面

 次の書面を裁判所に提出いたしました。

第五準備書面

平成24年(ワ)第6690号 執行判決請求事件
原  告  夏   淑  琴
被  告  株式会社展転社 外1名

第五準備書面

平成25年8月23日

東京地方裁判所民事第25部乙1A係  御中

被告ら訴訟代理人
             弁護士 高池勝彦
弁護士 荒木田修
             弁護士 尾崎幸廣
弁護士 勝俣幸洋
弁護士 田中禎人
            弁護士 山口達視
弁護士 辻 美紀

1 「外国裁判所」について
(1)原告は、乙第8号証につき、被告らがその第四準備書面で主張するように「当該外国機関の判断が我が国の裁判所の判断に比肩するものか否かであり、我が国との同質性を実質的に判断すべきである」などと読み取ることはできない旨反論する。
 しかし、上記部分は乙第8号証からほぼそのままのかたちで引用した記載であり、被告らの独自の解釈ではない。また、乙第8号証を一読すれば、被告の主張がその記載内容を曲解したものではないことは、以下のとおり明らかである。
 すなわち、乙第8号証(286頁以下)は、わが国の確定判決がわが国において執行力を有する究極的な根拠を「当事者に必要な手続保障が与えられた上で下された公権的判断であるという点にある」とし、「外国で下されたものであったとしても、わが国の裁判所に比肩するだけの信頼されうる機関による判断で、かつ、わが国で最低限必要とされるだけの手続保障が当事者に確保された上でなされたものであれば、わが国においても同様に既判力や執行力を認める余地があることになる」とする。したがって、乙第8号証においては、外国判決を我が国で承認執行するにつき、@わが国の裁判所に比肩するだけの信頼されうる機関による判断であること及びAわが国で最低限必要とされるだけの手続保障が当事者に確保された上でなされたもの(判決)であることを要求しているのである。そして、上記@及びAを判断するにあたっては、「裁判」「確定」「判決」といった名称によるのでは足りず、実質的な検討をせざるをえない。
 したがって、上記被告らの主張は乙第8号証に沿った主張である。
  一方原告は、乙第8号証の記載内容を解釈するにつき、同文献に何ら引用のない甲第10号証、乙第4号証及び平成15年判決を持ち出し、これらと同じ内容を述べている旨主張するが、かかる主張は何ら根拠がなく失当である。
(2)また、中華人民共和国において裁判官の独立が保障されていないことについて、詳細は被告第二準備書面第1第2項に述べたとおりであるが、中華人民共和国人民法院は、最高の国家権力機関たる人民代表大会に対して責任を負い、その監督を受けるものとされており(中華人民共和国憲法第3条、第57条)、また、原告が、中華人民共和国において裁判権(司法権)の独立が保障されていることの根拠として挙げる同国人民法院組織法第4条は、「人民法院は、・・・行政機関、社会団体及び個人の干渉を受けない」と規定するのみで、人民代表大会からの干渉を受けないとは規定されていない。
 したがって、中華人民共和国において裁判権の独立が認められていないことは明白である。
(3)そして、上記のとおり中華人民共和国においては、制度として裁判官の独立が保障されていないのであるから、本件外国判決が法に則って判断されている旨の原告の主張に対し、被告らは「明確な反論」をする必要がないのである。
 すなわち、中華人民共和国における判決につき、形式的には既存の法を適用し判断された判決であるかのように見えたとしても、法の解釈適用にあたって常に外部(国家権力=中国共産党)からの圧力に晒されている以上、公正な裁判という要請に対し常に疑問が生じていることとなる。そのため、個別事件つき法に則った判断か否かをどれほど検討しても、結局、裁判の公正さに対する疑問を払拭することはできず、よって、個別事件における正当性を検討しても意味がないのである。
(4)原告は、本件著作とは執筆者も著作物も異なる東中野修道(以下「東中野」という)の「『南京虐殺』の徹底検証」と題する書籍(以下「東中野書籍」という)にかかる名誉毀損訴訟と本件外国判決の構造が同じであることをもって、本件外国判決が法に則って判断された旨主張する。しかし、当事者、問題となった著作物さらには判断主体も異なる二つの判決を持ち出し、一方において名誉毀損が成立しているから、他方の名誉毀損成立という判断も法に則った正当なものであるとする主張の根拠はどこにあるのだろうか。
 また、そもそも、上記のとおり、本件外国判決が法に則って判断されたか否かは問題とならない。

2 「確定判決」について
(1)執行申立期間について
ア 我が国において、外国判決の承認執行制度が定められた趣旨は、権利者に国境を越えた権利保護を与えること及び各国間に矛盾した判決が生じることを防止することにあるところ(乙第4号証620頁)、これを超えて、権利者に対し過大な権利保護まで与えるものではない。すなわち、我が国の民訴法118条は、判決国において執行力が失われている外国判決につき、我が国において執行力を付与することまで認めているものではない。
イ 被告らがその第四準備書面で引用した東京地判昭和35年7月21日判決(下民11巻7号1535頁)は、「民事訴訟法第200条(現118条)において外国判決を承認するためには、当該外国判決が当該国の法律に照して有効であることを前提とすることは当然であって、本件判決が形式的に確定しているからといって、米国法の観点からその有効性を主張しえない場合であれば、外国の確定判決であってもこれに対して執行を許す判決をすることはできない」とする。
 本件外国判決につき、中華人民共和国民事訴訟法によると、執行申立期間は1年(平成19年(2007年)改正前第219条)ないし2年(同改正後215条)であるところ、本件外国判決の確定は平成19年6月29日、本件訴訟の提起が平成24年2月であり、本件訴訟が提起された時点で同法における執行申立期間がはるかに経過していることは明らかである。したがって、本件外国判決は、すでに中華人民共和国において執行力は失われており、本件外国判決は、判決国たる中国法の観点からその有効性を主張しえない判決である。
ウ また、執行力が失われているか否かは、上記のとおり当該外国判決の確定の日及び執行判決請求訴訟の訴訟提起の日から外形的に判断でき、当該外国判決の内容に立ち入る必要はない。
エ したがって、原告の反論には理由がなく、本件外国判決は民訴法118条の「確定判決」とはいえない。
(2) 訴訟時効について
ア 原告は、平成12年11月27日、東中野書籍にかかる名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起したことをもって、本件外国判決にかかる訴訟時効が中断した旨主張する(甲第8号証の1の6頁)。
 本件訴訟は、被告松村の著書に関するものなので、原告の主張は意味がない。
イ 原告は、民事執行法24条2項の実質的再審査の禁止の原則から訴訟時効期間の経過について判断することはできない旨主張する。
 しかし、執行判決が当該外国判決の当否を調査しないでなすことが要求されているからといって、請求異議の事由をも一切審査してならないとまでされているわけではなく(甲第9号証261頁)、むしろ、執行判決訴訟においては請求異議訴訟において提出できる事由を抗弁となし得ることが認められている(東京地方裁判所昭和40年10月13日判決、下民16巻10号1560頁)。
 したがって、本件訴訟において、訴訟時効期間経過の主張につき判断しても、実質的再審査禁止の原則に反しない。
ウ よって、訴訟時効にかかる原告の主張には理由がない。
エ さらに、本件訴状の請求原因によれば、本件外国判決は、平成19年6月29日に確定した。中華人民共和国民法においては、訴訟時効の期間は2年であるから、平成21年6月29日に時効が完成したところ、原告が本件訴訟を提起したのは、時効完成後の平成24年3月8日である。被告らは時効を援用する。

3 管轄について
(1) 結果発生地について
ア 原告は、本件著作の内容が原告を含めた中華人民共和国の関係者に伝わることは必至であるとして、本件著作にかかる結果発生地を中華人民共和国にも認められる旨主張しているようであるが、名誉毀損の成否において問題となるのは、当該著作物によって対象者の社会的評価が低下したか否かであり、原告及びその関係者に本件著作の情報が伝わるか否かと中華人民共和国において名誉毀損という損害が発生したか否かは別の問題である。
 したがって、原告の反論こそ意味をなさない。
イ さらに、東中野書籍にかかる損害賠償請求訴訟(甲第8号証、以下「東中野訴訟」という)は本件と何ら関係のない訴訟であることは繰り返し述べたとおりであるが、加えて、上記訴訟は、東中野が本件原告に対し、我が国おいて提起した債務不存在確認請求事件に対する反訴として、本件原告が我が国の裁判所に提起したものであり、その争点は、我が国において東中野の本件原告に対する名誉毀損が成立しているか否かであった。さらに、東中野書籍は、中華人民共和国においても発行されている(甲第8号証の1、31頁)。すなわち、東中野訴訟において、名誉棄損の結果発生地が中華人民共和国に認められるか否かは問題となっていないのである。
 したがって、東中野訴訟において、本件原告に対し名誉毀損の成立が認められていることと、本件における結果発生地が中華人民共和国に認められるか否かは無関係である。
(2) 新聞記事について
 この点についても被告第四準備書面の繰り返しとなるが、新聞記事は、その性質上、著作物の内容を報道したものであっても必然的に当該記事を書いた記者の主観が入るものである。特に本件においては、本件著作の正式な中国語版は発行されておらず、また、通常、新聞記事が著作物の全文を引用しているとは到底考えられず、一部のみ引用したと考えられる。そして、その中国語訳や引用の仕方といった点につき記者の主観が入ることは避けられない。そうであれば、本件著作と原告の主張する新聞記事とは全く別物であり、したがって、原告が新聞記事によって名誉が毀損されたのであれば、当該新聞記事に対しその責任を問うべきである。
(3) 海賊版について
 原告は、海賊版にかかる被告らの主張に対し、何ら実質的な反論をしていないが、さらに付け加えていえば、不法な海賊版に基づき原著作者に対する名誉毀損の成否を判断することは、結局のところ、不法な海賊版を容認することに帰着し、著作権保護の観点から許されない。
(4) 奥田意見書(2)について
 なお、甲第11号証 意見書(2)第5 間接管轄の末尾に「精神的苦痛という結果が中国において発生することを予見」云々とあるが、何を言っているのか理解できない。苦痛発生場所は管轄とは無関係である。苦痛の発生場所を管轄とするのであれば、管轄の意味がなかろう。
(5) したがって、土地管轄が認められないとの被告らの主張に対する原告の反論は失当である。

4 原訴訟において被告らに対する必要な呼出しがなされていないこと
民訴法118条2号の要件を充足していることの立証責任は、執行判決の請求を求める原告にある。しかし、甲第2号証の添付書類では同号の立証として不十分である。

5 公序良俗違反
(1) 手続的公序違反
ア 被告らが、本件外国判決を我が国で承認することは手続的公序に反すると主張する根拠は、原訴訟が裁判官の独立が認められていない中華人民共和国における訴訟であり、被告らには、独立した裁判官による公平な裁判を受ける機会を保障されていなかったことにある。原告は、手続的公序とは防御の機会が与えられているか否かであるとするところ、被告らは「手続的公序とは、防御の機会が与えられていること」との解釈を否定するものではなく、防御の機会のみならず、裁判官(司法権)の独立も手続的公序に含まれる旨主張しているのである。
イ 加えて原告は、被告らは、本件外国判決において不服申立ての可能性があったのであるから、本件において手続的公序違反を問うことができない旨反論する。しかし、中華人民共和国における訴訟である以上、被告らに独立した裁判官による裁判を受ける機会が保障されることはない。したがって、本件において不服申し立ての可能性があったか否かは問題ではない。
 仮に不服申立ての可能性の有無が問題となりうるとしても、中華人民共和国において、独立した裁判官による公平な裁判を受けることができないことは明らかであり、被告らが原訴訟において不服申立ての手段をとらなかったことにつき合理的な理由が認められる。
ウ よって、本件外国判決は手続的公序に反するものである。
(2) 実体的公序違反
ア 本件において名誉毀損が成立しうるとすれば、結果発生地たる我が国においてであるから、損害の程度についても我が国における損害の程度を検討すべきである。本件原告は、一私人であり、我が国においてプロ野球選手らと同程度に著名な人物であるなどとは到底いえない。また、原告は中華人民共和国における著名さを主張し、証拠として中華人民共和国の新聞記事を掲げているが、これらの主張立証は、何ら意味のないものである。
イ 原告は、本件著作のうち、李秀英にかかる記載部分にかかる訴訟の判断をもって被告らの悪質性を主張するが、本件で問題になっているのは原告に関する記述の部分であり、被告松村が十分な研究のうえその成果を発表したものであるか否かは、本件原告にかかる記述部分から判断すべきものである。したがって、原告の主張には理由がない。
ウ 本件著作が、中華人民共和国を含む全世界に対し、どの程度報道されたのか不明であるが、被告らが認識していたのは本件著作を我が国で発行することであり、本件著作にかかる情報がどのように報道されるかについて、被告らが関知できるものではない。被告らにつき、中華人民共和国において報道されることを期待していた等とは言いがかりである。したがって、被告らにつき悪質性など認められない。
(3) 以上の次第で、本件外国判決は、我が国における公の秩序に反するものである。

6 相互の保証について
(1) 平成15年判決の射程について
 昭和58年判決は、被告第四準備書面第6項?で述べたとおり、「相互の保証」(民訴法118条4号)につき部分的相互保証で足りるとしており、具体的にどこまで細分化するかは、判決国における承認要件の区別によると解される。そこで、本件外国判決の判決国たる中華人民共和国についてみると、外国離婚判決と財産法上の判決とで承認要件が区別されている。したがって、我が国において同国の判決を承認執行するかの判断にあたっては、離婚判決か財産法上の判決かで区別して判断することになる。
 そして平成15年判決は、経済取引、すなわち財産法上の判決であり、一方、本件外国判決も損害賠償請求事件であるから財産法上の判決である。よって、平成15年判決及び本件外国判決はいずれも財産法上の判決にかかる執行判決請求訴訟であるから、平成15年判決は、本件の先例としてその射程が及ぶのである。
 原告は、平成15年判決が「経済取引」という文言を用いていることから本件判決にその射程は及ばない旨主張する。しかし、同判決がかかる文言を用いていることのみをもって、広く財産法上の判決を排斥し、経済取引にかかる判断のみに限定していると読みとることはできない。
 したがって、平成15年判決の射程は、財産法上の判決全般に及ぶものであり、よって、当然に本件についても及ぶ。
(2)相互の保証について
ア 被告らが実際の運用状況をみて相互の保証の有無を判断すべきであると主張するのは、承認規則文言の比較のみで相互の保証の有無を判断するのではなく、当該外国において、実際に、我が国の判決が執行される可能性があるかを判断すべきであり、このように解することが、民訴法118条4号の趣旨たる国家対等の原則に沿うものである。被告らは、先例を要求しているのではなく、当該外国における法の実際の運用状況を加味して相互の保証の有無を判断すべきと主張しているのである。
 昭和58年判決は、確かに承認規則の文言から相互の保証の有無を判断しているが、これはその判断に加味すべき運用状況上の問題が存在していなかったと考えるのが自然である。
 これに対し、奥田安弘意見書(2)(甲第11号証2頁)は、同判決につき、「たまたま先例が存在しなかったからではなく、常に承認規則の比較を行うべきであることを求めていると解される」とし、その理由として「昭和58年最高裁判決は、先例の不存在を理由として、かような審査方法を採用したと述べているわけではないからである」としているが、何ら積極的な理由付けとはなっていない。むしろ、同判決は、「判決国における外国判決の承認の条件が我が国における右条件と実質的に同等であれば足りる」としており、実質的な同等を要求すると明言している。
 さらに、平成10年判決についてみると、昭和58年判決の判旨を引用し(この点については上記奥田意見書(2)においても認めている)、香港における外国判決法及び同規則の文言のみならず、実際に香港で適用されている英国法のコモン・ローの原則を認定したうえ当該原則から相互の保証の有無を判断しており、承認規則の文言の比較のみで判断したのではないことは明らかである。
 なお、判例解説に運用状況に言及したとの指摘がないからといって、運用状況に言及していないといえないことはいうまでもない。
イ したがって、相互の保証の有無を判断するにつき、実際の運用状況を検討すべきであるとの被告らの主張は、昭和58年判決及び平成10年判決に沿うものである。
(3) よって、我が国と中華人民共和国との間に相互の保証は認められない。

7 法令の解釈・適用について
(1) 本訴は、もとより、民事訴訟法118条、執行承認の要件の解釈の問題であるところ、そもそも、法令の解釈・適用について留意すべき基本的姿勢を先ずは確認したい。
 法令の解釈には、二つの使命があるといわれる。一は、法規範に対して、人によっても、事件によっても、その結果が異ならないような、一般的な確実性をもつ内容を与えることであり、二は、法規範に対して、それぞれの場合に適用されて妥当な結果をもたらすような、具体的な妥当性をもつ内容を与えることである。この一般的確実性と具体的妥当性とは、法規範の有する二大使命である。しかるに、この二つの使命は、容易に調和しない。一方を尊重すれば、他方が犠牲にされる傾向が強い。したがって、法解釈の理想は、一般的確実性と具体的妥当性を調和させること、一層適切にいえば、一般的確実性を脅かさずに具体的妥当性を最大限に発揮することであるといわれる。
 ここで問題にしたいのは、この具体的妥当性の問題である。一部くり返しになるが、以下のとおりである。
(2) 被告らは、民訴法118条にいう「外国の裁判所」の解釈・適用に際してのあるべき態度につき、被告第二準備書面の第一及び第四準備書面1において、縷々述べた。要するに、当該外国の裁判所が「裁判所」と名乗っていれば、当然、わが国の上記法条にいう「外国の裁判所」に該るわけではないということである。
 原告は、その第二準備書面の1 (2) イ及び同項 (2) イにおいて、「中華人民共和国の人民法院組織法第4条は『人民法院は、法律の規定に従い独立して裁判権を行使し、行政機関、社会団体及び個人の干渉を受けない。』と規定されているから中華人民共和国においても、「制度として裁判権(司法権)の独立が保障されている」などと全く実態を無視した夢想ともいうべき主張をする(社会主義幻想)。
 中華人民共和国において、司法権の独立が制度として保障されているなどと主張することが夢想・幻想であることの証左など無数にある。枚挙にいとまがない。直近の一例を挙げる。2952対1であった。先の中華人民共和国全国人民代表大会(憲法上は最高の国家権力機関とされている)において、習近平が国家主席に選任されたときの賛否の票である(共産党独裁国で最高指導者・権力者を選任するにつき、事実上、反対票を投じる自由はない)。バチカンで新法王、フランシスコ1世が3分の2超の票を得るまで5回の投票を繰り返した枢機卿たちがうらやみたくなるような、あきれるような「圧勝」であった(反対票を投じた一人とは、どうやら習近平自身らしい ― 謙譲の美徳?)。一党独裁国の凄さ、怖さを示す数字である。体制として、真に、司法権の独立を保障する独裁国などありはしない。なぜそうなのかは説明するまでもなかろう。
 そもそも、中華人民共和国の法制度にしたところで、司法権の独立など認めていない。原告は、同国人民法院組織法第4条が「人民法院は、・・・行政機関、社会団体及び個人の干渉を受けない」と規定しているから、同国においても司法権の独立が保障されているなどと噴飯物というべき主張をする。
 司法権の独立とは、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(日本国憲法76条3項)。これが司法権の独立の本来の意味で、自由民主主義諸国の法制度はみなこうである。ここに「独立して」とは、何人の意見にも動かされず、独自の判断にもとづいて、ということを意味し、裁判官は、その職権を行使するにあたって、完全に独立であって、他の何ものの指揮命令も受けないというのである。立法機関や行政機関はもとより、他の裁判官の命令にも服しない。そのかわり、ひたすら、自主的に判断をくだし、公平無私な態度で裁判をしなければならない。ただ、「憲法及び法律にのみ拘束される」。裁判官を拘束するのは、法だけである。
 一方、中華人民共和国における原告のいうところの「司法権の独立」なるものの実態についてである。先ず、上記人民法院組織法第4条の主語を見られたい。主語は「人民法院」であって、「裁判官」ではない。つまり、人民法院は「干渉を受けない」かもしれないが、個々の裁判官は干渉を受けるのである。司法権の独立とは、すなわち、裁判官の独立のことであるから、これでは、結局、司法権の独立は認められていないことになる。次に、「干渉」「拘束」する主体の問題である。我が国において裁判官を「拘束」するのは、法だけである。ところが、中華人民共和国の人民法院に対し「干渉」してはならないのは、行政機関、社会団体及び個人だけである(限定列挙)。別言すれば、それ以外の機関、人民代表大会はもとより、中国共産党、上級法院等は、事件係属中であっても、担当裁判官に対し、「干渉」してもよいということなのである。実際にこれらの機関は、法院や裁判官に対し、干渉・指示・命令しているのである。これでどこに「制度的に保証された司法権の独立」があるというのか。似て非なる制度なのではない(「平賀書簡」など問題にもならない)。司法権の独立という概念・制度が裁判官は法にのみ拘束されることを本質とする以上、人民法院組織法第4条は、司法権の独立とは無縁の全く別の制度なのである。私たちは、共産党独裁国家たる中華人民共和国の法令のそれらしい字面に幻惑されて、安易に、中華人民共和国でも司法権の独立が制度的に保障されているなどと考えてはならない(乙第12号証 田中信行著『はじめての中国法』特に28頁〜30頁、278頁、乙第13号証『現代中国法入門[第6版]』328頁〜331頁)。
(3) また、そもそも、中華人民共和国最高人民法院なる同国国家機関が日本の裁判所の確定判決を中華人民共和国においては執行できないと宣言しているのである(乙5)。それにもかかわらず、我が国の裁判所が中華人民共和国の法院の判決の執行を承認するなど、対中自虐の極致ではなかろうか。
(4) 最後に、本件原告に執行承認を認めた場合、今後、いかなる事態が現出するかを考慮しないでは、法規範解釈の使命の一たる具体的妥当性を没却することになる。ほんの少し想像力を働かせれば、生起するであろう事態のプロセスは次のとおりとなる。@わが国にはいわゆる「南京本」を含め、中華人民共和国政府・中国共産党並びに同国の人民を論評・批判する無数の書籍・論文・新聞報道等の言説がある。A同国人民がこれにより名誉を害されたと称して、日本在住の日本人を被告として、次々に中華人民共和国の人民法院に提訴する。B被告とされた日本国民、日本法人は、事実上、応訴できない(仮令、応訴しても勝訴の可能性はない。同国の国策で日本人被告の敗訴は初めから明らかである)。C人民法院により、日本人ないし日本法人に対し、(どうかすると不当に高額の)支払いを命じる判決が宣告され確定する。D当該判決がシステマティックに然るべき日本人弁護士に転送され、被告とされた日本国民及び日本法人(出版社、新聞社等)に対する執行承認を取得する。Eかくして、日本国民の財産の大収奪が始まる(売国ビジネスの誕生)。F我が国における対中華人民共和国側批判の言論は封殺され、同国を支持・賛美する言論は格別、同国政府、共産党、人民を批判・非難する言論、出版、集会の自由は死滅する。自由民主主義理念の基盤に立つ我が国の憲法体制は、対中華人民共和国に関する限り崩壊する。
 このような事態を招来するであろう日本国法令の解釈態度では、具体的妥当性を図るべき法規範解釈の使命を果たせないことになる。
以上