西村眞悟 『闘いはまだ続いている』

はじめに(抜粋)

 北朝鮮による日本人拉致問題が、昨秋来、国民の関心を集めてきた。永田町では、拉致日本人救出議員連盟が表面にでて、日朝友好議員連盟がなりを潜めた。なりを潜めたが、元首相、元自民党幹事長や多数の与野党有力議員を会員とする日朝友好議員連盟は今も大勢力である。この大勢力は、一貫して拉致問題には組織的に全く関心を示していない。そして国交正常化促進・北朝鮮支援という出番を窺っているかのようだ。彼等の政治手法は、戦後政治の本流、つまり「のど元過ぎて熱さ忘れよう」、「みんなで渡れば怖くない」だ。
 従ってこの時点で、忘れてはならない本質的課題を提示しておく。現象だけを追いかけて、重要課題を没却してはならないからだ。拉致問題こそ、「戦後日本」の体制変換を迫るものである。断じて従来の政治手法の元に還してはならない。
 戦後政治体制の変換を迫る第一の課題は、「日本国政府は、北朝鮮による日本人拉致を何時知ったのか、または、何時知りうべきであったのか」ということである。この課題の解明無くして事の本質は把握できず、改革のターゲットを絞れない。


(中略)


 さて、繰返すが、日本政府には国民を守る責務がある。昭和五十二年晩秋から五十三年夏にかけて、立て続けに日本人が北朝鮮に拉致されている。そして、日本政府は、この拉致を知りもしくは知りうべきであった。にもかかわらず、漫然と放置して政府として救出に取り組まなかった日本政府には、重大な不作為の責任があるというべきである。
 注意を怠らなければ非加熱製剤の危険性に気付き、その使用を中止できたにもかかわらず注意を怠り漫然と使用を継続させ、多くのエイズ患者が生み出された事件に際し、厚生省(当時)の担当課長は、業務上過失致死傷罪で逮捕されている。日本人拉致事件と非加熱製剤事件と、法の正義を貫くなら、同等に責任を追及されなければならない。政治的不作為だけが、「仕方がない」と免責されてはならない。
 しかし、この免責をもたらすものが、「戦後政治」だ。よって、「戦後政治」とは如何に欺瞞と偽善に満ち、また国民に惨害をもたらす不道徳なもので速やかに除去すべきものであるか、明らかであろう。我々は、自国の欺瞞に満ちた政治風潮によって、神戸の地震のときに放置された国民と北朝鮮に拉致されて放置された国民の悲劇を目の当たりに見なければならなかった。これ全て、国防の体制と精神の欠落が国民にもたらした悲劇である。
 今速やかに装備すべきはテロを撲滅できる国家の実力である。然るに、日本国政府は、北朝鮮のミサイルが我が国領土内に打ち込まれたときには、自衛隊の「災害派遣」で対処するという。ミサイルを撃たれて既に戦争であるのに、「災害派遣」とは何事か。政府は、ミサイル攻撃により数十万の国民が死ぬことを前提にして「災害派遣」と言っている。不誠実、無血虫、不道徳の極みである。我が国に向けたミサイルは事前に確実に破壊して断じて撃たせない、そのための実力を保持するという決断を何故しないのだ。
 さらに、政治的不作為のことを考えよう。不作為とは、為すべきであるのに何もしないことである。間違ったことをすれば、責任を問われる。同様に為すべきことをしない場合も責任を問われる。よって、人の世界は適正なことが適正な時期に為されることによって運営されるようになる。
 ところが、我が国の政治風土は、何かを為したり言ったりしたことに対しては時に過剰な反応をしながら、為すべきことをしないことに対しては無反応にうち過ぎるのだ。その結果、何もしないことが政治世界での渡世の術となる。当然、この渡世の術を心得た者が出世して利権を操作することになる。そうなれば、出世した者は、ますます何もしない何も変わらない現状に固執することになる。したがって現在日本の情況は、権力構造の現実の姿としては崩壊前のソビエトの政治体制と何も変わらない。


(中略)


 そこで、結論から言う。我が国は、自らがコントロールできる核抑止力を保持すべきである。よくミサイル防衛(MD)で十分ではないかと言う人がいる。しかし、ミサイル防衛を完成させるにはまだまだ時間がかかる。よって、当然ミサイル防衛開発を鋭意進めるべきだが、それによって核抑止力議論を排除してはならない。
 では、核抑止力とは何か。相手に核を自国に落とさせない力である。分かりやすく言えば、「やるなら、こちらもやるぞ」という体制だ。これを「相互確証破壊」という。残念ながら米ソ冷戦時代から今日まで、核抑止力は相互確証破壊なのだ。そして、この体制は合理的に行動する相手に対しては有効であり、現在の我が国安全保持に有効である。なぜなら北朝鮮の独裁者は昨年九月十七日の小泉総理とのピョンヤン会談での映像を見ても「普通の男」であるし、飛行機に乗るのを避けて汽車でモスクワに行く男(つまり飛行機の墜落が怖い、死ぬのが怖い男)であるからだ。これが目の焦点も合わない異常な言動であったなら、「やれば、やるぞ」という構えが利かない本当に危険な異常者なのであるが、幸いそうではない。金正日は、合理的な行動で自らの命を守ろうとする独裁者といえる。つまり、彼は錯乱しない限り、自分が死ぬと分かっていれば核を撃たない。
 次に、この核抑止力体制、相互確証破壊体制を我が国が主体的に保持するために何をすべきか。明らかであろう。非核三原則、「造らず」、「持たず」、「持ち込ませず」のうち少なくとも「持ち込ませず」を撤廃すべきなのだ。即ち、同盟国アメリカの核ミサイルが我が国の核抑止力になるならば、我が国内にその核ミサイルを持ち込むことの是非、これを議論しなければならない。
 さらに考えよう。アメリカ大統領は誰の命を守る責務を背負っているのか。それはアメリカ国民である。日本国民の命を守る責務は、日本国内閣総理大臣が背負っている。この当然のお互いの責務のなかで、アメリカ大統領はアメリカ国民が数十万人死亡する危険を冒してまで日本国民を守るのか。かつてアメリカ大統領は、アメリカ軍青年の命を守るために日本の一般市民の上に原爆を落とし、現在に至るも、それは正当だと言っている。
 結局、日本国内閣総理大臣は、自らの重い責務に目覚めるべきなのだ。他国に頼ることなく、自らの決断で日本国民の命を守らねばならない窮極の情況が有り得ると。そしてその有りうべき窮極の情況を克服するために、「造って、持つ」という選択肢が残されている。そして、歴代総理大臣がこの選択肢を自覚していること自体が、既に抑止力なのだ。
 北朝鮮の独裁者と宥和した二人に、ノーベル平和賞が贈られた。カーター元大統領と、金大中元大統領である。これは、朝鮮半島はヒットラーに宥和した「ミュンヘン会談」の歴史的段階にあることを示している。この歴史段階。即ち、動乱が控えている段階である。