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新装版 私の中の山岡荘八 思い出の伯父・荘八 山内健生 著 四六並製 456頁 定価:2500円+税 令和5年8月15日発行 ISBN978-4-88656-561-7 C0095 |
ベストセラー『徳川家康』やNHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』で著名な山岡荘八の実の甥っ子が振り返る伯父・荘八の実像。歴史小説に一分野を築いた山岡荘八の知られざる真情に迫る。 |
【目次】 一、遠い日の「甘くて、美味い」思い出 ―バナナ・サンドウィッチ・豚カツ― 二、六年間、壊れなかった「東京の伯父さん」が買ってくれた自慢のランドセル ―それは「姑への気遣い」だったと気づく― 三、校長先生が家にやって来た! ―「祖母の葬儀」にまつわる思い出 四、明敏で譲らぬ「荘八の母」、涙もろい「荘八の父」 ―祖母にねだった″伯父さんからの甘納豆=\ 五、「荒ぶる神」の来訪で、不気味だった ―伯父の帰省は「ハレ」の出来事だった― 六、度外れていた喜怒哀楽 ―傷心の母に宛てた「悔やみ状」、若き日に「吉川英治邸に乗り込む」― 七、夫唱婦随の伯父夫婦と、「婿取り」同士の義伯母と母との関係 ―「兄嫁と小姑」の微妙な綱引き― 八、毎年、三ヶ月近くわが家に滞在した「桐生のおばあちゃん」 ―挨拶をする素面の伯父は、まことに「行儀の良い紳士」に見えた― 九、「人間性の善良さを物語る」″明るい酒乱=A「ふたりの山岡さん」 ―新田次郎氏曰く「とにかくびっくりしましたですねえ」― 一〇、「けいこ」でも、「本番」でも、泣いた文春文士劇の″世田谷団十郎 ―「芝居後の山岡さんは″水気≠ェ失せていた」― 一一、「跡取り」の若い住職の法話に泣き通しだった ―伯父は年忌法要を怠らなかった― 一二、故里の残雪を見ても、伯父はポロポロと涙を流した ―「父の位牌」が伴われた母とのお伊勢参り― 一三、一滴も飲まないことも、飲んでも「荒れない」ことも… ―突然、カバンひとつで来訪して、「三等車」で帰京した― 一四、「涙」もなく「乱れ」もなく、お開きとなった還暦の祝い ―飲めば「荒れる」と決まっているわけではないのだ― 一五、「嬉しさ八分、不安二分」で同行した車での帰省 ―二泊の日程が平穏に過ぎてホッとする― 一六、新聞店でどんぶり飯の朝食中、伯父がテレビに登場して驚いた ―伯父原作の少年向け連続ドラマ「泣くな太陽」は夕飯時だった― 一七、「原作 山岡荘八」のナレーションが心地よかった ―講談「徳川家康」のラジオ放送、「虚々実々」から契った義兄弟=\ 一八、「こんな懸命になって、ひとを慰める場面に遭遇したのは初めてであった」 ―武田八洲満氏曰く「山岡さんの気遣いに、私は愕然としていた」― 一九、あッ、今夜、伯父さんがラジオに出る!、朝から放送が待ち遠しかった ―テレビに出た英語の先生は「伯父の小学校の同級生だった」― 二〇、「この映画の原作は山岡荘八ですてぇ」と母は薦めていた ―新発見! へえー、伯父さんは現代劇も書くんだ― 二一、寝ている伯父の手足を勝手に揉んだ、お礼は「五千円札」だった ―ふくらはぎが平坦で、つるッとしていた― 二二、早朝の川釣りで、蚊に刺されて熱を出して医者が来た! ―私の「ビール初体験」、縁側から「放水」の伯父― 二三、伯父の「芸者買い」に同行した母は、自慢気に語っていた ―そば屋で差し出された色紙を前に、思いを凝らす顔つきは真剣そのものだった ― 二四、長岡市での講演二題 ―「その″秀才≠ヘ私の従兄弟ですよ」― 二五、越後長岡藩の「士魂と意地」を描いた小説「桜系図」 ―山本五十六元帥の故里、長岡の士風を語る作品― 二六、初めて訪ねた伯父宅で目にしたもの、「総調和運動」のパンフレット ―特攻隊員の署名帖、「九千万国民の日」の団扇、「志ん太郎」の表札― 二七、伯父と″親しい¢コ上元三氏の「安保反対派」批判に意を強くした ―紙面は騒がしかったが、町中は平静だった― 二八、「浅沼もなあ、悪い男じゃないんだが」と目頭を熱くしたことだろう ―「苦々しい出来事」に違いなかった安保反対闘争― 二九、終戦の翌年、「ゴッタ煮の座談会」でsc恆存氏と同席していた ―伯父曰く「通俗性を大衆性に置きかえる戦いが僕らの務めだ」― 三〇、ゲイボーイに平手を飛ばして、「江戸川乱歩先生の説諭!?」を受ける ―「肉親の叔父御といった気持ちでずいぶん我儘をさせて貰った」― 三一、「これは素ッ裸の私であつて、如何なる批評にも責を持つ」 ―小説「原子爆弾」の冒頭に掲げられた挑戦状のような″作者の言葉=\ 三二、伯父の生真面目さを示す小説「原子爆弾」 ―「一体論的原子力時代!」の到来から、「統制経済」批判まで― 三三、「六〇安保」の前年に書かれた『小説岸信介』 ―再読して、「あとがき」に驚いた、伯父の反「進歩的文化人」宣言だ!― 三四、「最後の従軍」と「江田島の今昔」 ―隔世の感がする朝日新聞掲載の体験記― 三五、「丹羽文雄氏の眼にほんとにそう映ったのか」 ―特攻基地・鹿屋の町で「哀れな下士官を意地悪く撲る」士官!?― 三六、「ことごとに陸軍の肩をもって海軍を罵倒し、口を極めてののしった」 ―丹羽文雄氏の『告白』に登場する「大衆小説家の山岡荘八」!― 三七、丹羽文雄氏らとともに伯父の訳文も収めた『現代語訳しんらん全集』があった ―丹羽氏の小説『徳川家康』評、「国民文学の名にふさはしい作品」― 三八、母曰く「そりゃあ、いい男っぷりたらなかったんし」 ―椿山荘の屋外舞台で「国定忠治」を熱演、母から聞いた伯父の言葉=\ 三九、ある夜、「俺は小説家ではない、理想家だ」と語った ―『徳川家康』は「過去の人間群像から次代の光を模索する理想小説」― 四〇、「 ″小夜更けて≠ヘ、この際は無意味だよ」 ―「吉川英治文学賞」の受賞を祝う拙詠≠ヨの批評と添削― 四一、新鷹会のパーティーに、「氷壁」の作者・井上靖氏のお顔があった ―コンパニオンに囲まれて御機嫌の伯父の、その後が気になった…!?― 四二、「一龍齋貞鳳のところの女房は、かなり年上だったぞ」 ―「健生、どこかに良い婿はいないか」― 四三、「バカヤロー、長州だ!」に、ガラスは震動した ―かくして、式場は乃木神社に決まる― 四四、「健生、どこに住むのか?」 ―「ウチの離れはどうかな」に思わず飛びつく― 四五、女優村松英子さんが「役作り」で、伯父宅を訪ねていた! ―学研版、山岡荘八著『吉田松陰』余話― 四六、清酒「白雪」の社長の肝いりで学研版『吉田松陰』がドラマに ―株主筋からの横やり?で盛り上がらなかった″白雪劇場=\ 四七、「藤野庄蔵」名義の賃貸契約書を書いてもらう ―住宅手当の受領に「成功」― 四八、あまた「傍線」が引かれた古びたロシア文学全集があった ―「自然主義の身辺雑記的な純文学では物足りなかった」― 四九、″シャーロック・ホームズ&ィの翻案小説を書いていた ―コナン・ドイル原作『緋色の研究』の翻案「復讐の天使」― 五〇、「いいか、披露宴の前に紹介するんだぞ」 ―挙式前夜の忠告― 五一、「この男は、私の目の前で、二階から庭に落ちた」 ―披露宴での思い掛けない伯父の挨拶― 五二、「結婚十年か、まだこの味は出ないなあ」 ―ホームドラマを見ながら、つぶやいていた― 五三、私は″十時さま≠ニ陰で呼ばれていた!? ―谷崎潤一郎著『台所太平記』のドラマと伯父宅とがダブってしまった― 五四、「健生、取り締まる警視総監が学生に同情して泣いていたよ」 ―教師はどうあるべきかを教えられ、独断で警察署へ― 五五、ノーベル賞作家・川端康成氏、都知事選でマイクを握る ―特攻基地「鹿屋」の後も続いた川端氏との交流― 五六、「秦野はいいところにいくぞ」とならなかった都知事選 ―あきれた、「山岡荘八」擁立の動き― 五七、「しょうがない男だ。都知事のことだよ」 ―美濃部都知事の登場で、ゲストが一瞬にしてホストになった!?― 五八、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」の発起人代表だった ―三十九年後、当夜のパンフを見て驚いた!― 五九、「三島さんは死んでも、再びみんなのところにかえってきている…」 ―四百勝投手、金田正一氏との対談― 六〇、「白き菊捧げまつらむ憂国忌」 ―憂国忌へ献句もしていた、「自決は生きるためにするのである」― 六一、妻曰く「万葉集の歌碑が建つらしいわよ」 ―妻は揮毫する伯父の姿を目にしていた― 六二、すべて伯父まかせだったわが子の名前、「お風呂どうぞ!」の秘書さんの声 ―今もわが家にある「伯父宅の居間にあった洋服箪笥」― 六三、作者も主演も「小出」の出身だった大河ドラマ「独眼竜政宗」 ―お蔭で「母」が写真週刊誌に載る― 六四、「たしか、審査員だったはずだぞ」、拙文が「佳作」入選した懸賞論文 ―伯父の無責任な?名義貸し― 六五、「角栄は喋りすぎでなあ…」と言いつつも、励ます会の会長を務める ―同郷の誼から来る義侠心のあらわれ― 六六、「俺は、これを書き上げないと死ねないんだ」 ―晩年、廣池千九郎博士の伝記小説に取り組む、「笹川良一伝」にも― 六七、「いきなり激して、『原稿をとり返せ』と叫んだ」 ―いささか荒っぽく見えたのは、それだけ「純情」だったのだ― 六八、母の歎き、「実の娘だったら特急で追っ掛けて来るのだろうに…」 ―「椿事」発生!。だが、御在位五十年奉祝委員会の会長を務める― 六九、お湯割りの清酒・緑川に「やっぱり美味い!」 ―亡くなる前年の夏、存分に故里の空気を吸う― 七〇、総理秘書官からの電話に、声を荒らげる ―「十年ぶりにお墓参りに来ているんだ。勝手なことを言うな!」― 七一、「太郎七」「荘八」と来て「九太郎」に、「九」にこだわったわが筆名 ―伯父と過ごした「ひと夏の思い出」となった拙稿― 七二、「健生も、いいことを書くようになったよ」 ―伯父は、母に向かっては「褒めて」くれていた― 七三、伯父の最期、「私も拭かせて」と義伯母は言った ― 初めて「臨終の場」に立ち会った。空気の「質量」が重く感じられた― 七四、骨壺を胸に、私は明治神宮に額づいた ―わが家に仮寝して、遺骨(分骨)は故里へ― 七五、「″嘘っぽい!?貼り紙」と「″抜けた稚気を持つ作家≠フ女房」 ―伯父の死まで続いていた母と義伯母との「微妙な」綱引き― 七六、故里のいしぶみ、「魂魄の依り代」の除幕 ―「菊ひたしわれは百姓の子なりけり」― 七七、鹿島孝二氏曰く「長谷川伸先生が、山岡君は″大説≠書く男だと仰有っていた」 ―人生の師からのありがたき評言― 七八、追いつめられた編集者を助けようと「久米正雄の代作」を引き受けていた ―久米さんは「私の名前で発表しては、相手にわるいよ」と言った― 七九、居間に掲げられていた短大「名誉学長」の委嘱状 ―二時間に及んだ就任挨拶、オープンカーで目抜き通りをめぐる― 八〇、「子供に大人の批判など言わせるな」と言った ―進歩派批判の随筆に、私が「甥の大学生」として登場していた!― 八一、気になっていた『海底戦記』を読む ―「戦中の記念碑的長編、『御盾』のみを躊躇することなく収録した」― 八二、なぜタイトルが『小説太平洋戦争』となったのか? ―主権回復二十周年記念国民大会の会長を務める― 八三、シュバイツアー博士への「冷評」 ―「今の日本で、国宝級の人物は足立正、太田耕造、岸信介の三人だよ」― 八四、戦後日本における異色作、『小説太平洋戦争』 ―「八月十五日、再び天皇は慈父として国民すべての前に姿を現わしたのだ」― 八五、「日本的な生命観が、アメリカにとって最も恐ろしい敵であった」! ―「当時の日本人の感情を忘れてはならない」― 八六、「無条件降伏どころか、″無限大の要求≠していた」 ―″マルクス≠ェ語られた「国民総調和の日」の講演― 八七、この泡盛は「沖縄が再び日本の沖縄県になるまで」封を切らない ―杉田幸三氏曰く「私には山岡荘八の侠気の強さが魅力だった」― 八八、小説家がわざわざ「小説」と銘打った作品 ―『小説太平洋戦争』と『小説明治天皇』、山岡荘八の「三部作」― 八九、伯父の二作品が ″《日本主義》ブックフェア≠フ書籍コーナーにあった ―「『天皇機関説』式の近代国家は崩壊し、神国日本が甦生していた」― 九〇、「山岡荘八生誕之地」碑の除幕、「名誉市民」の称号を追贈される ―魂魄の新たな依り代、四たびお招きに与かった園遊会― 九一、初めは「小さな行き違い」だったが… ―悲しいかな、すべてが伯父の不祥事になってしまう!― 九二、女房からの褒詞!「戦後を必死に、ひたむきに生きた主人の心が滲んでいる」 ―″ただ一つ残れる赤き柿よ… 夜を訪れる霜と語れよ=\ 九三、「山岡荘八こと藤野庄蔵は…」と、自ら書いた墓誌 ―ついに伯父夫婦は「無縁仏」になってしまったのか― 九四、父の死で、ハッと気づいた伯父の「孤独」!? ―伯父からもらった「浴衣、ネクタイ、革靴」― |
【著者略歴】 山内健生(やまうち たけお) 昭和19年11月、新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)に生まれる。亜細亜大学商学科、立正大学史学科を卒業後、神奈川県立高校に奉職。全日制課程勤務の後、夜間の定時制課程に移る。その傍ら國學院大學大学院に学び、文学研究科博士課程後期(神道学専攻)を単位取得満期退学。亜細亜大学講師(昭和59年度〜平成26年度)、拓殖大学政経学部講師(平成9年度〜同26年度)、拓殖大学日本文化研究所客員教授(平成14年度〜同28年度)を歴任。東京医薬専門学校、皇宮警察学校、警察大学校などの教壇にも立つ。現在、公益社団法人国民文化研究会常務理事・同(月刊紙)『国民同胞』編集長。 著書に『「深い泉の国」の文化学』(展転社)、『「深い泉の国」の日本学』(同)、『古事記神話の思想―日本思想研究序説―』(国民文化研究会)、『「新日本学」論考』(同)、『日本思想史論考』(大東出版社)がある。共著に『欧米名著(明治)邦訳集』(国民文化研究会)、『名歌でたどる日本の心』(草思社)、『語り継ごう 日本の思想』(明成社)、『アジア人の見た霊魂の行く方』(大東出版社)、『平成の大みうたを仰ぐ(三)』(展転社)などがある。他に、山内恭子追悼歌集『折々草』正・続がある。 |