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日台を繋いだ台湾人学者の半生 楊合義回顧録 楊合義 著 四六並製 464頁 定価:2800円+税 令和2年7月10日発行 ISBN978-4-88656-503-7 C0023 |
政治大学国際関係研究センターの駐日特派員として日本に派遣され、日台関係の紐帯に尽力した著書の半生を描く。 |
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【目次】 第一章 楊氏の家系 一、楊氏族譜 二、祖父楊順天の事績 三、父楊看の事績 〈注釈〉 第二章 私の幼少時代 一、日本統治の末期 二、日本統治時代についての回顧 (一)四方八方に通じる並木道路 (二)「?水来了」(灌漑水が来た) (三)「大人来了」(警察が来た) (四)物資の統制 三、中華民国統治の初期 (一)強烈に感じた時代の変化 (二)「糖都」と呼ばれる虎尾鎮の今昔 (三)台湾の歴史の傷痕となった「二二八事件」の勃発 〈事件の背景〉 〈事件の経過〉 〈虎尾鎮で目撃した「二二八事件」〉 〈「二二八事件」の後遺症〉 (四)虎尾中学(現国立虎尾科技大学)での三年間 〈注釈〉 第三章 青年時代前期 一、父の事業失敗と高校進学の断念 二、雲林県虎尾地政事務所に就職 三、台湾省立台北師範学校へ進学 (一)師範学校志望の理由 (二)入試のため台北市の迪化街に二週間滞在 (三)台北師範学校の寮生活 (四)軍事訓練 (五)週記簿事件 (六)教学実習 (七)修学旅行 (八)台北師範学校卒業 〈注釈〉 第四章 青年時代の後期 一、台北市龍山区西門国民学校の教員時代 (一)師範学校卒業生の勤務先配属制度 (二)台北市龍山区西門国民学校の沿革 (三)中学への高進学率と児童数の急増 (四)算盤選手の訓練を兼務 (五)大学へ進学する準備 (六)台湾師範大学への進学 (七)大学四年に結婚 (八)一年の予備軍官役 (九)西門国民学校への復職と日本への留学試験 (十)パスポートと出入国証明の申請 二、京都大学留学時代 (一)京都大学への留学 (二)学園紛争と授業中止 (三)授業再開と修士課程へ進学 (四)大学院の授業 (五)妻と子供たちの来日 (六)三つのアルバイト 〈注釈〉 第五章 国際関係研究センターにおける四年五ヶ月の国内勤務 一、博士課程修了後の就職活動 二、政治大学国際関係研究センターの招聘 三、京都からの引き揚げ 四、政治大学国際関係研究センター沿革 五、国際関係研究センターの二大任務 六、国際関係研究センターの特性 七、国際関係研究センターにおける四年五ケ月の国内勤務(一九七六年七月〜一九八〇年十一月) (一)国際関係研究センターへ赴任 (二)研究分野転向の苦労 八、対日学術交流の初仕事 九、日華「大陸問題」研究会議の秘書を担当 十、日本からの訪問客の接待 十一、日本の交流協会台北事務所との交流 十二、三校の非常勤講師 (一)私立世界新聞専科学校 (二)私立中国文化大学日本研究所 (三)政治大学文理学院東方語文学系 十三、「北方領土」問題を研究するための北海道旅行 〈注釈〉 第六章 国際関係研究センター東京事務所への赴任 一、東京事務所の沿革と主要任務 (一)東京事務所の沿革 (二)東京事務所の主要任務 1、『問題と研究』誌の発行 2、日華「大陸問題」研究会議のパイプ役 3、日華学術交流の促進とその他 二、張棟材研究員の駐日特派員辞任と後任の選定 三、出国手続きと日本への入国ビザの申請 四、東京事務所への赴任 〈注釈〉 第七章 東京事務所着任後の緊急課題 一、日華「大陸問題」研究会議復活の交渉 二、『問題と研究』誌の寄贈と販売部数の精査および読者名簿の作成 三、第八回日華「大陸問題」研究会議の開催 四、『問題と研究』誌編集委員会の発足 〈注釈〉 第八章 第九、十、十一回の日華「大陸問題」研究会議 一、第九回日華「大陸問題」研究会議 二、第十回日華「大陸問題」研究会議 三、第十一回日華「大陸問題」研究会議 〈注釈〉 第九章 時代の変化に順応する『問題と研究』誌の各種改革と活動 一、中共に関する用語の規制緩和 二、掲載内容の多様化 1、京都大学佐伯富名誉教授の「中国における北と南」 2、産経新聞・石井英夫論説委員の「少数民族の目」(二十三巻十号) 3、笠原正明教授(神戸市外国語大学)の「城と城下町」(第十五巻三号) 三、台湾事情に関するコラムの開設 四、編集会議運営の多様化 五、「シンポジウム:李登輝総統新体制下の両岸関係」の主催 〈注釈〉 第十章 日華「大陸問題」研究会議の遷り変り 一、日華双方人事の世代交替 (一)台湾側歴代の団長 (二)日本側歴代の団長 (三)双方団長の年齢の隔たり (四)団長以外の世代交代 1、台湾側主要メンバーの世代交代 2、日本側主要メンバーの世代交代 二、日華「大陸問題」研究会議終了の経緯 (一)両岸関係の変化 1、両岸の人事、経済、学術などの交流 2、日華「大陸問題」研究会議の重要性の低下 (二)大陸問題研究の自由化 (三)国際関係研究センターの位置付けをめぐる内紛 (四)東京事務所設置に対する立法院の質疑 第十一章 「アジア・オープン・フォーラム」(「亜洲展望」研討会) 一、「アジア・オープン・フォーラム」の縁起 二、「アジア・オープン・フォーラム」(「亜洲展望」研討会)の趣旨 三、日本側の民間方式運営 四、台湾側の半官半民方式運営 五、日華双方の参加者 (一)日本側の参加者 (二)中華民国側の参加者 六、十二回会議の概況 七、亀井正夫団長と中嶋嶺雄秘書長への勲章授与 八、「アジア・オープン・フォーラム」における東京事務所の役割 九、多忙の合間を縫って会議を準備する中嶋嶺雄先生 十、李登輝氏の訪日 第十二章 国際関係研究センター駐東京特派員在任中の学術活動 一、東海大学非常勤講師 二、日本の学界における活動 三、行政院大陸委員会設立当初の訪日研修団の案内 四、政治大学選挙研究センター訪日の案内 五、講演 (一)亜細亜大学アジア研究所主催の公開講座 (二)アジア社会問題研究所での講演 (三)社団法人・亜東親善協会での講演 (四)その他 六、日華関係研究会(二〇〇三年に日台関係研究会と改名) 七、アジア問題懇話会 八、中華欧亜基金会(現亜太和平研究基金会) 〈注釈〉 第十三章 平成国際大学専任教授在任中の学術活動 一、政治大学国際関係研究センター定年退職後を如何にアレンジするかの迷い 二、平成国際大学専任教授就任の一年目 三、佐藤栄太郎理事長の台湾訪問 四、佐藤理事長、蓮見理事、中村学長の留学生への手厚いもてなし 五、留学生に対する支援活動 六、野球部の台湾遠征 七、淡江大学理事長、学長、副学長らが相次いで来訪 八、ユニオン・モーター(UNION MOTER)株式会社社長・林義久 第十四章 平成国際大学在職中の台湾研修とその他の学術活動 一、日華関係研究会主催の「台湾国際関係研修団」 (一)台湾本島および所属離島の研修 (二)金門島の研修 (三)非法小三通現場の見学 二、その他の学術活動 (一)共同研究〜日露戦争の戦跡調査と満洲地方への研修旅行 (二)中国語の勉強会 三、定年退職の準備 四、退職者の送別会 五、交通事故で頸椎が損傷 |
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【著者略歴】 楊合義(よう ごうぎ) 平成国際大学名誉教授。 1934 年日本統治下の台湾・台南生まれ。 台湾・国立師範大学卒業、京都大学大学院東洋史研究科博士課程修了、台湾・国立政治大学国際関係研究センターに勤務、助理研究員、副研究員を経て研究員。同研究センター駐東京特派員兼日本語版『問題と研究』( 月刊誌)編集長。平成国際大学法学部教授。 著書に『決定版 台湾の変遷史』(展転社)、共著に『日米同盟と台湾』、『東アジア新冷戦と台湾』、『激変するアジア政治地図と日台の絆』、『辛亥革命100 年と日本』(いずれも早稲田出版)がある。 | |