――――――――発刊の言葉――――――――


われら何処より来たり、何処へ往くか――

井尻 千男

 「日本文化」といったとき、人々は何を思い浮かべるだろうか。日本語に蓄積された詩歌、物語、散文、思想、あるいは木や石に刻まれ、紙や絹に描かれた形や色彩、そこに篭められた日本人のイマジネーション、その集合体としての神社仏閣、城郭と町並み、そこで営まれる人々の生活の細部と、それを構成する家具調度品の類などを想起することができる。言葉にかかわることを文学といい、形にかかわることを美術といってきた。
 それらが文化概念の基本であることは疑いようのないことだが、たとえば社交のかたち、組織原理、その意思決定のプロセスといった無形のものに文化が宿っていることも疑いようのないことである。民俗学や文化人類学の進展がその文化概念の地平を無限に拡大したといっていいだろう。するとそれに呼応するように、政治学、経済学、社会学、もまた固有の歴史性に注目し、その意味を問うことになる。科学史も例外ではない。
 その大きな流れは国際化と密接につながっていた。国際化は一方で普遍的原理を探求させるが、同時に固有性を再認識させる。世界が広がるなかでの自己測定、自己確認が必要だからだ。「われら何処より来たり、何処へ往くか」を問わざるをえないのである。この普遍性を望遠するととも固有性を再確認する二元的眼差し、それこそが国際化時代を生きる知の構造といわねばならない。比較文化論、比較文明論が隆盛するゆえんである。
 しかしながら、その知性における構造的変化に陥穽がなかったわけではない。いわゆる文化相対主義がそれである。世界の諸々の文化がそれぞれにつよい求心力をもって並存しているのだという現実的認識と文化相対主義は異なる。相対的であることを主義としたときから、その文化の求心力を失うからである。静態的な観察の学としては成立するだろうが、動態的な実践の学たりえない。相対を主義としたときから倫理性が抜け落ち、守るべき価値を見失うからである。
 知の構造にも危険な陥穽が多々あることは戦後五十余年の歴史を振り返ればわかることだ。なんと多くの知のファッションが消滅したことか。
 そのようにして文化概念が拡大し拡散した現状を踏まえたうえで、あらためて日本文化とは何かを問うとしたら、如何なるかたちがありうるか。
 拡大した文化概念、人文学と社会学に相わたる文化論をその動機のレベルに遡れば、「われら何処より来たり、何処へ往くか」の一言に極まれるだろう。ならば「アイデンティティー」の探求こそが文化研究の根源的願望だったと再定義することができる。その対象が政治であれ経済であれ、その学の動機と探求の姿勢によって文化研究そのものになるはずだ。そう考えることによって拡散した文化概念に求心力を回復することが必要な秋である。そう思いつつアイデンティティー探求としての『日本文化』を世に問う次第である。